「小笠原レース2025」レース公示が公開

「小笠原レース2025」の『レース公示』が公開されました。
来年(2025)の春に開催されるヨットレースなので、やけに気が早いように感じますが、いえいえそんなことは無いのです。

前回(2023)は

前回の「小笠原レース2023」は、昨年(2023)4/23(日)に神奈川県の三崎をスタート。小笠原の父島を目指す約500マイルの本格的な外洋ヨットレースで、日本全国から7艇が出場しました。

ゴールデンウイーク直前で“初夏の入口”といっても良い季節ですが、スタート当日は北から張り出す高気圧から吹き出す冷たい北東~東の風。レースはハイスピードのドラッグレースとなります。

良い風というよりなかなか手強い強風だったようですが、参加艇中最大レーティングの〈貴帆〉(Class 40 Pogo40-S3)が25日21時27分37秒にファーストホーム。所要時間は58時間27分。速い。

後を追う〈Thetis-4〉(First 40.7)、〈Zero〉(IMX40)の2艇は〈貴帆〉とほぼ同じ全長40ft艇ですがよりレーティングが低く、ここまでのペースで走り続ければ修正で優勝、つまりこの時点では勝っていたのです。
が……。
〈貴帆〉のフィニッシュ後に風は前に回って弱まり、結果「先着艇〈貴帆〉の逆転優勝」と表現すべき結果となりました。

観ている側としても、レーティングを用いて修正時間で競う外洋ヨットレースの妙味を感じていただけたかと。

最終結果


小笠原は特別

そもそも小笠原を舞台としたヨットレースは、1979年に「第1回 小笠原レース」として日本外洋帆走協会(NORC)の主催で開催されました。

「第1回八丈島レース」が1967年。「第1回 沖縄-東京レース」が1972年ですから、NORCが主催し推進してきた外洋レースの中では後発のイベントといえます。

以降、「沖縄レース」と隔年で開催されていきますが、80年代は日本の外洋ヨットレースの爛熟期ともいえ、人気の「グアムレース」や「ジャパンカップ」、「ケンウッドカップ」等の影に隠れて、「小笠原」、「沖縄」は中途半端な存在になってしまったのかもしれません。
平成3年(1991)の「第7回小笠原レース」は参加艇が集まらず中止。1993年の「第8回小笠原レース」も……。
外洋艇によるヨットレース自体は盛んだったのですが、「小笠原」の歴史はここで途切れてしまいます。

平成17年(2005)には、16年ぶりに再開しますが、参加艇はわずか3艇。で、後が続かず。

もう「小笠原」は無理か、と思われていましたが。
さらに12年経って、平成29年(2017)、小笠原諸島返還50周年記念事業「小笠原ヨットレース2017」としてJSAF外洋三崎の主催で開催されます。
これが、14艇がエントリーし12艇がスタート、全艇完走。と大成功。

さらに翌平成30年(2018)の「沖縄-東海レース」を挟んで令和元年(2019)「小笠原ヨットレース2019」が開催され、こちらも10艇がエントリー、7艇がフィニッシュ。
と、小笠原完全復活かと思われていたところで、令和3年(2021)は新型コロナウイルスのまん延により中止の憂き目にあってしまいます。

さあ、どうする、どうなる、小笠原。
というところで開催されたのが前回の「小笠原レース2023」だったわけで。
これが成功したのは大きなニュースなのです。
そして、続く「小笠原レース2025」が開催されることも……。

この小笠原。
日本の領土の中でもなかなか変わった立ち位置にあります。
その歴史をひもとくと……。

そもそも小笠原とは

小笠原島という島はありません。

今回のフィニッシュ地点は父島。広い入江を持つ大きな島で、兄島、弟島などと合わせて父島列島といいます。その南にある母島、姉島、妹島などの母島列島。北に聟島(むこじま)、嫁島、媒島(なこうどじま)等の聟島列島。
と、これらを合わせて小笠原群島と呼び。
硫黄島、北硫黄島、南硫黄島などの火山列島や、孤立している南鳥島、沖の鳥島なども含めた島々全部ひっくるめて小笠原諸島。で、行政区としては、これらすべてが東京都小笠原村になります。

民間人が住んでいるのは父島と母島のみですが。その他の島々には兄だの嫁だの親族の名がつけられているのが特殊で、ちょっと調べてみたのですが、他にあまり例がありません。

なんでか。なんで親族名なのか。

江戸時代の小笠原

寛文9年(1669)11月、船主で船頭の勘左衛門ら7人が乗り組みみかんを積んで紀伊国宮崎から江戸へ向かっていた弁才船(べざいせん)が遠州灘で遭難。約1ヶ月半漂流し、翌寛文10年(1670)にたどり着いた無人島が今の母島であろう、とされています。
勘左衛門は島に着いてすぐに亡くなりますが、残る荷主の長右衛門ら6人は島で船を直し、島づたいに伊豆下田まで無事生還。すごいですね。
で、幕府にこの無人島の存在を報告します。

すでに寛永10年(1633)には「第1次鎖国令」が出ており、これは日本人であっても一旦海外に出たら日本に入国できないというものですから、行方不明になっていた長右衛門らは「無人島に流れ着いただけ」という事実を報告しないと。というか厳しい取り調べを受けたはず。

これを受けて幕府は、延宝3年(1675)に探検船「富国寿丸」を派遣。無事無人島群を見つけて上陸、後に父島と名付けられたその島に祠(ほこら)を造り、そこに「此島大日本之内也」(略:この島は日本の領土である)と刻んだ、と。

いやー、1675年といえば四代将軍 徳川家綱の時代。
江戸幕府がこの無人島を開拓しようとしていたのはすごいです。
そして、このときの調査が後に日本の領土として世界に認められる重要な根拠となるわけですが……。

下って、
享保7年(1722)には、伊豆・相模両国の代官山田治衛門が無人島探検を幕府へ具申しますが、そのとき、小笠原貞任(おがさわら さだとう)なる人物が『辰巳無人島訴状幷口上留書』(たつみぶにんじまそじょうならびにこうじょうとめがき)という写本を携えて名乗り出ます。
そこには、先祖の小笠原貞頼が文禄2年(1593)に伊豆の南で無人島を発見し、豊臣秀吉から所領として安堵(あんど)された、と書かれていたそうな。つまりその“辰己”(南東方)にある無人島は、私(小笠原貞任)が先祖から受け継いだのものである、と。

ご先祖様が島を見つけたという1593年といえば江戸時代の前、安土桃山時代。
世界に目を向ければ、マゼラン艦隊がスペイン、セビリアを出港したのが1519年で。この頃にはすでにポルトガル船は喜望峰からインド洋経由で太平洋まで到達していたわけで。
種子島に漂着した船から鉄砲が伝わった(鉄砲伝来)が1543年。フランシスコ・ザビエルの来日が1549年。
と、16世紀(1500年代)はスペイン、ポルトガルの海洋進出めざましく。彼らによる小笠原諸島とおぼしき島々の発見記録もあるにはあるようですが。
そんな16世紀の末に、日本人小笠原貞頼が探検航海をして小笠原を見つけていたと。うーむ、なんだか怪しい。

結局この「辰巳無人島訴状幷口上留書」を携えて現れた小笠原貞任なる人物は人物詐称とされ、江戸から重追放となります。
つまり、「テメー、嘘ついてんじゃネーよ」ということなのですが、
小笠原貞任を語る人物が小笠原貞頼の末裔である、という部分が詐称なのか。『辰巳無人島訴状幷口上留書』自体も捏造したものなのか。
そもそも小笠原貞頼は小笠原を見つけたのか。いやその前に、探しに船を出したのか。
江戸時代の享保7年(1722)からすれば130年前の安土桃山時代のお話なので。なんかすべてが怪しい……くはありますが。それはそれとして、この一件からこの島々は小笠原と呼ばれるようになり、父島、母島という親族名もこの写本にあったものがそのまま継承されたんだそうな。
日本の島は見た目などから命名されることが多いのに、小笠原の島々には安易に親族名が振られているのは、実際に島には行ってなかったからなのではないか、という説が有力のようです。

で、この写本の存在よりも、延宝3年(1675)に探検船「富国寿丸」が父島に祠を建てたことが、後に大きく効いてくるわけで……。

世界に出て行く日本

19世紀(1800年代)に入ってから、米英の捕鯨船が日本の近海まで鯨を追って遠征してくるようになります。
小説『白鯨』(初版:1851年)の舞台も日本の近海ということだし。鎖国制度下の日本船が難破漂流した際に米国船に助けられることも多く。ジョン万次郎もそうですよね。
どれだけ日本の近海を外国船が走りまわっていたことか。
そんな外国船に水や食料の補給が必要ということで、日本は開港を迫られたわけですが。

文政13年(1830)。ナサニエル・セイヴァリーら欧米系の白人5人とポリネシアン25人がハワイから父島に入植します。
ジェームズ・クックがハワイを発見したのが1778年ですから。1830年といえば、ハワイ王国に白人が影響力を持ち始めた頃ですね。逆いえば、まだハワイ王国は健在。
そんなハワイから小笠原は、貿易風に乗ってひとっ走り。いや、結構距離あるか。でも、そこに島があることは分かっていて、移住してきたわけです。

嘉永6年(1853)黒船が浦賀に来航しますが、このときペリー艦隊は小笠原にも寄っています。この頃は、英、米、蘭で小笠原諸島の帰属を巡ってもめていたもよう。
そして、安政3年(1856)に日米修好通商条約が締結されます。
が、まだ江戸時代です。

文久元年(1862)。幕府はアメリカから帰還したばかりの咸臨丸で小笠原に佐々倉桐太郎ら官吏を派遣、測量を行います。
このときすでにハワイから移住してきた人達が住み着いていたわけですが、
・この島は日本の領土であること、
・幕府は先住者を保護すること
を呼びかけ、彼らの同意を得。駐日本の各国代表に小笠原諸島の領有権を通告しました。
ここ、しっかりやっといて正解。

そして、
文久2年(1863)。 八丈島から38名の入植開始。
なんですけど、幕末の日本国内は動乱状態で。小笠原がどうなるかどうするかどころではなかったようです。

そして明治維新。

明治9年(1876)。日本政府は小笠原諸島の日本統治を各国に通告。日本の領有が確定し内務省の管轄となります。すでに入植していた初期の欧米系島民は日本に帰化し、日本人として小笠原に住み続けます。

大東亜戦争が勃発すると太平洋も戦火に包まれ、小笠原の住民は強制的に本土に疎開。
小笠原にも日本軍の基地がおかれますが、飛行場も作ったものの長さが短く離着陸が難しいということで、水上機の基地としてわずかに機能する程度。軍事的には飛行場のあった硫黄島の方が重要で、ご承知のように硫黄島では激烈な攻防戦が繰り広げられたものの、小笠原はわずかに空爆があったぐらいでした。

そして昭和20年(1945)、終戦。
戦後は小笠原も米国の施政権下ににおかれ、欧米系の旧島民のみ帰島が許されます。
もちろん、日本人としてです。

いよいよ日本に返還されたのが、昭和43年(1968)。56年前のことになります。
同じ返還でも、終戦時に民間人が住んでいた沖縄とはだいぶ様相が違っています。

で、「第1回 小笠原レース」が1979年。
小笠原諸島は数奇な運命の中に浮かぶ絶海の孤島群故、当時の記事を読むと、レースの開催は地元島民から大歓迎をうけていたようです。

父島には大きな入り江があって、帆船時代にも錨地として機能していたはずですが、未だに飛行場はなく。船でしか行けません。

どうです。この小笠原へ行くレースがあったら、出たくなるでしょ。

ライフラフトが必要なレース

「小笠原レース2025」の『レース公示』(NoR:Notice of Race)では、前回同様『外洋特別規定』の「カテゴリー2」が適用されています。【NoR 4.2(d)】

一つ下のランクである「カテ3」と「カテ2」の違いはかなりあるのですが、一番の違いは、ライフラフトが必要というところではないでしょうか。

なんですが、まずその前に、

【NoR 4.2(c)】 船舶検査証書「近海」を有する艇(臨時航行許可証は不可とし、臨時変更証書「近海への航行区域変更」は可とする。外国籍艇は除く。)

と、参加艇はOSRの前に、「近海」で船検をとる必要があります。これはレースのルール以前の問題で、日本の法律として、三崎から小笠原への航海には「近海」の航行区域で取得した船検証が必要となります。

ここで必要になるのがライフラフト。船検備品として「小型船舶用膨脹式救命いかだ」が必要になります。
これが重くかさばるので、一旦「近海」で船検をとってしまうと、その後にインショアレースに出るときもラフト積んだままじゃなきゃいけないの? となってしまいます。

そこで『臨時変更証』。
よく“臨航(りんこう)”と略して呼ばれてきましたが、『臨時航行許可証』というものが別にありまして、これは基本的には船検が切れてしまった船やこれから船検を取得する船が検査のためなどで回航する時に使うもの。臨時航行検査を受けて受領します。

対して可とされる『臨時変更証』は、船検証を有しているけれども一時的に航行区域を変えるなどの用に用いるもの。で、こちらなら可、ということ。

我々ヨット業界でよく“臨航”と呼んでいるのは、実はこちら『臨時変更証』のことなんですかね。
前に小型船舶検査機構に問い合わせたのですが、運用がこれまで曖昧になっていたと係の方はおっしゃっていました。

で、この「沿海」から「近海」への「臨時変更」はわりと楽です。
具体的には、小型船舶検査機構にお問い合わせください。
最初はあれもこれもと言われるかもしれませんが、XXがあればYYはいらない、というようなのが多いです。

でも、結局「小型船舶用膨脹式救命いかだ」は必要です。

これが、【OSR 4.20】で求められるSOLASあるいはISO規格のライフラフト(以下:ISOラフト)とは別物で、日本独自の、それも一般商船用とはまた別の小型船舶独自の規格(以下:船検ラフト)なのです。

船検を取るには「ISOラフト」では認められず。OSRには「船検ラフト」では認められず。「近海」で船検を取ってOSRは「カテ2」でとなると、「船検ラフト」と「ISOラフト」の両方搭載しなければならなくなります。
実際ライフジャケットなんかは船検用とOSR用と両方搭載しているはずです。が、さすがにライフラフトは重くかさばります。両方積むのは無理。

そこで、
【NoR 4.2(d)】で

(1) OSR4.20.5 ライフラフトの点検整備期間はJCI検査有効期間内であれば可とする。なお、ライフラフトは、JCIで規定される小型船舶用膨張式救命いかだでも可とする。(外国籍艇は除く)

と、しているわけです。

しかしこの「船検ラフト」(小型船舶用膨脹式救命いかだ)は需要が極端に少ないため、古い規格のものをずっと造り続けているというのが実情で。かたや世界規格の「ISOラフト」は日々改良されており、性能的には「ISOラフト」の方が圧倒的に優れています。どちらか1つ搭載するなら、「船検ラフト」より「ISOラフト」でしょう。これは日本のライフラフト製造業者も認めるところ。その製造業者が「ISOラフト」の輸入販売やメンテナンスもしてたりするので、「ISOラフト」で船検可とすべき、とおっしゃってます。
つまり、「ISOラフト」で船検可にしても困る人はいないということ。

なのに、なぜこの「ISOラフト問題」が一向に進まないのか。
いろいろ要因はあるのでしょうが、一つはライフラフトが必要なヨットレースがほとんどない、ということかも。

ということで、ライフラフトの搭載が必要な本格的な外洋ヨットレースである「小笠原レース」が続くこと。つまり、来年の「小笠原レース2025」へ多数の参加艇を得て成功を収めることは、日本の外洋ヨットレース界にとってきわめて重要な意味をもつことだと思うのです。

コラムの中で出てきた用語は、リンク集でサイトをご確認いただけます。


著者:高槻和宏

昭和30年(1955)生まれ。横須賀在住のマリンジャーナリスト。ヨット関連の著書多数。


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