ヨットレース数あれど「小笠原レース2023」は外洋レースでありまして。
改めて外洋レースの勝ち負けについて。参加するアマチュアイベントとしての外洋レースのエンスー度は……コリンシアン?
■レース公示
『レース公示(Notice of Race)』とは、いつ・どんなヨットに・どんな人が乗って・どんなコースを走るのか──一言で〝ヨットレース〞といってもいろいろあるわけで、いったいどんなヨットレースなのかを記したイベントの設計図のようなものなのです。
たとえば、
我々メディアからすると、大会の正式名称はなんなのか?
webサイトやポスター、スケジュールリストなどでちょいと異なる名称が混在していることも少なからずあって。
そんなときは『レース公示』にある記載が正しい、ということ。
後から主催者側になにか言われても、「『レース公示』でそうなっていたから」といえば、もうぐーの音も出ないわけで。
それほど大会公式掲示板に掲載された『レース公示』は重みのある公式文書なのです。
■基本はRRS
「小笠原レース2023」の『レース公示』では、冒頭に、
1.1 本大会には『セーリング競技規則』(以下「RRS」と記載する)に定義された規則が適用される。
とあります。
『RRS』とは、ヨットレースの基本的なあれこれを定義しルール化したもので、
たとえば、
42.1 原則
(前略)艇はそのスピードを増し、持続しまたは減ずるために、風と水のみを用いて競技しなければならない。乗員は、セールや艇体のトリムを調整し、シーマンシップに基づいたその他の行動を取ることはできるが、これ以外には艇を推進するために体を動かしてはならない。
とあり、以下、禁止される行動や例外が事細かに記載されています。セーリングとはどういう行為なのかを定義しているわけで、風がなくなったからといってオールで漕ぐなんてのはもっての他ですぞ、ということです。まあ、漕いでも良いという競技があればそれはそれで面白そうですけど。
逆にいえば、『RRS』に従って開催されるイベントをヨットレースと呼ぶ、といってもよろしいかと。
冒頭の、
「基本原則」に続き、
「第1章 基本規則」でスポーツマンシップとフェア・プレーの原則とか自己責任が、
「第2章 艇が出会った場合」では衝突を避ける為のルールが、
「第3章 レースの実施」ではスタートの手順から、掲揚されるフラッグの意味など。
「第4章 レース中のその他の要件」は上に挙げた推進方法やら外部の援助など、
「第5章 抗議、救済、審問、不正行為および上告」なんてカタイものもあり。ここ結構長いです。
「第6章 参加と資格」で、クラス規則に従うこととか、
「第7章 レースの主催」では、主催者もRRSに従うことになっており。
と、ここまででもコッテリしてますが、
さらに、
「セーリング装備規則」
「日本セーリング連盟規定」
と続きます。かなり手強いです。
まずはこれを知っとかないと話にならないわけですが、これら全部頭に入っている人はそうそういないんじゃなかろうかと。筆者もしかり。一度通読したくらいじゃワカランことでいっぱいです。
ルールの講習会も行われてはいますが、ヨットレースの普及が遅れているのは『RRS』が難しいから、ってのも一つの要因かと。
さらに「小笠原レース2023」の『レース公示』では、
(a) 日没から日の出まで、RRS第2章を海上衝突予防法第2章に置き換える。
とあるので、『海上衝突予防法』も読まねばならぬ。って、小型船舶操縦士の免許取得時に習得しているか。ネットで検索すれば原文がすぐにヒットするので改めて目を通しておきましょう。
■外洋艇にもいろいろあれど
では、どんなヨットで? となると、
「小笠原レース2023」の『レース公示』には、
(e) 有効な IRC証書を証明できる艇(モノハル艇のみ)
とあり、適用規則にも、
1.1 (略)
1.2 IRC Rules2023 Part A, Part B, Part C, 及び日本セーリング連盟 IRC
規定を適用する。
となっています。
つまり、(モノハル艇では)IRC証書を取得している艇のみがIRCルールに基づいて参加できるということ。
『レース公示』の4.2(b)にある参加資格「LH10メーター以上のモノハル艇」の“LH”もIRCルールの元での「艇体の長さ(Hull Length)」を意味します。
船の“長さ”にはいろいろありまして。これがまたヤヤコシイんです。
■レーティングとハンディキャップ
IRC(International Rating Certificate)とは、英国のRORCレーティングオフィスとフランスのUNCLによって開発、管理されているレーティングシステムです。
レーティングとはヨットの格付けのこと。
ヨットの性能は複雑です。
水線長が長い艇の方が速い……ということはわかっていても、係留している状態といざ風を受けて走り出したときでは水線長は大きく変わってしまいます。
セールエリアが大きい艇の方が速そうなもんですが、風が強くなればいくら大きなセールを持っていても張り切れなくなってしまうわけで。
となると、大きなセールを展開し続けるための復原力の方が意味をもつことにもなり。では復原力をスピードのファクターとしてどう評価するのか。
と、そのヨットの格付けを決めるのは実に難しく、ヨットレース愛好家が150年近く悩んできた末の答えの一つが、IRCになります。
IRCは所用時間に修正時間係数(TCC)を乗じて修正時間を出すタイム・オン・タイムでシングルナンバー、つまりTCC値は1つだけというシンプルなシステムです。
コンディションによってそれぞれ得手不得手があるにも関わらず、ただ1つのTCC値で結果を出す。ということは「もうちょっと風が上がっていれば勝てていたのに……」みたいな不満も出てくるわけで。
それではと、
風域によって修正係数を変えたり、PCS(パフォーマンス・カーブ・スコアリング)を用いてインプライド・ウインドを競うなんてシステムも開発されてきましたが、いろいろ工夫したところでそもそも大きく性能が異なる艇間では、先行艇がフィニッシュした後でコンディションが変化すれば有利不利がハッキリ出てしまいます。
たとえば先行艇団がフィニッシュした後で風がぱたっと止んでしまったら、後続艇は圧倒的に不利です。なによなによ、となるわけですが、逆もまたしかり。どんなシステムを使ってもここは補えません。
だったらもうシングルナンバーのIRCで良いではないか、ということでの「一つの答え」ということです。
プロのセーラーが生活をかけて競い、我々はそれを観て楽しむというプロ・イベントとなるとそうはいかず。
ワンデザイン(同一規格の艇)
や、
ボックスルール(規格の大枠を決めてその中で自由設計)
等のヨットを使って着順を競います。
先にフィニッシュしたものが勝ち。
分かりやすいです。
フィニッシュはもちろん途中経過も。今は衛星通信でレース中の航跡が刻々と表示されるわけで。前後どころか横に広がることが多いヨットレースでもその航跡を目で追い風速/風向のデータと重ねることでレース展開がわかり観戦も盛り上がるというわけ。
ところがハンディキャップレースだとこうはいきません。
一定の場所の回航タイムから暫定結果は出せますが、これは“その時”の暫定結果ではなく。たとえば「小笠原レース2023」なら、北緯34度線を通過したタイムから修正時間を出して暫定順位を算出することはできても、各艇バラバラの時間に北緯34度線を通過するわけで、修正順位を航跡図に表して戦況を把握するのが難しいんです。
■運をつかむのも実力
かつてはレベルレースといって艇の計測値を公式に当てはめてレーティング(単位は長さ)を求め、レーティングの上限を決めてその中で着順勝負をするヨットレースもありました。
80年代はレベルレースで外洋艇のチャンピオンシップも開催されていたのですが、これがなかなか問題がありまして……。
ボックスルールやレベルレースでは速いヨットを作るという艇の開発も勝負の要素になります。オーナーからすれば誰でも同じワンデザイン艇を所有するより、より速い艇を造る喜びがあるわけで。観る側からしてもどこがどう高性能なのか新しいアイデアに興味津々で。
とはいえこれは逆に遅い艇では勝負にならないし、レース艇の寿命も短くなりお金がかかる、と。
ワンデザインはプロ・イベントだけではなく、国内でもJ/24やメルジェスといった小型艇ではフリートが成立しています。かつてはマム36やX-35といったワンデザイン・フリートもありましたが、このサイズになるとなかなか続きませんね。
となると、アマチュア対象の“参加するレース”では、参加艇を集める一つの答えがIRCのようなハンディキャップレースになるわけです。
シングルナンバーのハンディキャップで競うIRCのレースでは、運不運も勝負の大きな要素になります。
とはいえ、目の前のチャンスに気づかない、気づけない、こともあり。単に運が良かっただけでは勝てないのが外洋レース。
実力のあるチームが、巡ってきたチャンスをしっかりものにすることで、やっと勝利をつかめるということです。
IRCはTCCの算出根拠が非公開というところも特徴です。アマチュアの参加型レースではこうした曖昧さも意味を持つということかと。
また、IRCには計測員が計測を行う「エンドースド」と自己申告の「スタンダード」の2種類あり。「小笠原レース2023」の公示では特に謳われていないので「スタンダード」でも可ということですね。
正式には公表されていませんが、計測不要の「スタンダード」の方が得……にはならないようになっているようですよ。
IRCルールや運用ガイドはすべてJSAF外洋計測委員会のwebサイトで公開されています。計測員向けのマニュアルなんかもルールの理解に役に立つのでご一読を。
IRCルールを理解することで、ヨットレースがずっと興味深いものになるはずです。
で、ハンディキャップ・レースであっても着順1位をラインオナーとして称えるのもまた、ハンディキャップ・レースのもやもやを補うお楽しみ要素なのではありますまいか。
■コリンシアンとは
先に挙げた【RRS42】推進方法の原則として、「シーマンシップに基づいたその他の行動(other acts of seamanship )」とありますが、
このシーマンシップとは、
『ヨット、モーターボート用語辞典』(舵社刊)によれば、
船舶運用術。ロープの結び方やスプライス、錨の打ち方から操帆、操船、船底掃除や塗装、荒天運用まで、船を安全に運航し、良い状態にメインテナンスする、もろもろの技術の総称。ナビゲーション(航海術)の初歩を含む場合もある。我が国では、船乗り魂とか船乗りらしさというような倫理的ないし精神的要素をも含めて語られることが多いが、これは日本だけの言葉の使い方である。
とあります。
たしかに『RRS』では冒頭の「基本原則」や【RRS2】公正な帆走 あたりで別に“スポーツマンシップ”という言葉が出てくるわけで。「推進方法」としての“シーマンシップ”の意味はこれで通ります。
さらにいえば、
早稲田大学スポーツ科学学術院の石井昌幸教授が2013年に書いた論文『19世紀イギリスにおける「スポーツマンシップ」の語義』によれば、この“スポーツマンシップ”という言葉にも倫理的な概念が込められたのは19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけてである、とあります。
古く“スポーツマンシップ”は英国で「狩猟家の技量」のような意味合いで使われていたんだそうな。って言われてもなんかピンときませんが。この場合の狩猟とは貴族が楽しむ狩りのこと。たとえば今ならキャッチ・アンド・リリースのスポーツフィッシングって、わざわざ魚を釣って逃がすという遊び=スポーツなわけで。プロの猟師ではなく、スポーツマンとして鳥を撃つ狩りの技量・身分ということ。
貴族(ジェントルマン=アマチュア)のたしなみだったスポーツが労働者階級や外国人・植民地人にも広く普及すると、ルールの裏をかいてでも勝利を追い求めるといった非紳士的な行為が目につくようになり、そこから“スポーツマンシップ”に紳士的な振る舞いという倫理的な要素が盛り込まれていった、ということのようです。
論文の中では、“スポーツマンシップ”が倫理的な要素で使われるようになった古い例として、1871年の「アメリカズカップ」での防衛艇の行いが挙げられています。
記事は1887年に書かれたものですが、レース自体は1871年の第2回アメリカズカップになりますね。
まだレースのルール自体が定まっていない時期のはずですが、世界の海を征した大英帝国としては野蛮な新興国のヨットクラブに非紳士的なものを感じたのでしょう。
そもそもジェントルマン=アマチュアだったという事からして、近年のアマチュア=素人(しろうと)つまり経験が浅く未熟な人、とはかなり違うようです。
そういえば、ヨットレースの世界では“アマチュア”の代わりに“コリンシアン(Corinthian)”という言葉も度々目にします。
前回のコラム「第3話 小笠原レースの歴史」でご紹介した「JOG Yacht Racing」のwebサイトをみても、「JOG Histry」の中で、
英国ヨット界の重鎮Colin Mudie氏は、JOGはスポンサーなどあてにしないコリンシアンである、と。コリンシアンの精神は未来永劫続くのでありますぞ。と宣言してらっしゃいます。
このコリンシアンとは、アマチュア=素人ではなく、プロになる必要がないという意味かと。
昔は労働でお金を稼ぐ必要がない貴族がそれにあたったのかもしれませんが、逆に今はきちんとした仕事を持っていて生計を立て、ヨットレースでお金を稼ぐ必要の無い人。プロに届かない素人というより、マニア、エンスー(enthusiast)。……オタクはちょっと違うか。
ある意味プロよりヨットレースに価値を見出している人、と言えばいいか。
ああそうか、NORCの黎明期から躍進期にかけての会報ににじみ出ている情熱は、コリンシアンのそれなのかも。
そして今回の「小笠原レース2023」も、自己資金の元に自己責任で過酷な航程に挑む参加艇と、リスクを負ってこのイベントを企画し運営する主催者側とで成り立つ、コリンシアン精神溢れる外洋ヨットレースなのであるなぁと思うに至りました。
筆者は20代の頃からヨットを職業に選んだので、コリンシアンっ気ゼロです、すいません。
このコラムも原稿料をいただいて書いています。
レース中のデイリーレポート執筆も予定しておりますが、難しいと書いたハンディキャップレースでの途中経過も、これまでいろいろ工夫してきたのでなんとかします。そこはプロなんで。
コラムの中で出てきた用語は、リンク集でサイトをご確認いただけます。
著者:高槻和宏
昭和30年(1955)生まれ。横須賀在住のマリンジャーナリスト。ヨット関連の著書多数。
※「その道は大海原へ」は、JOSAが目指すテーマです。